大河ドラマはこの作品から始まった 1963年放送 井伊直弼の生涯を描いた第1作「花の生涯」

桜田門大河ドラマ

毎年注目を浴びる大河ドラマは、テレビ放送の10周年記念として企画され、1963年「映画に負けない日本一のドラマを作る」を合言葉に「大型娯楽時代劇」として誕生しました。当時は映画の絶頂期でテレビは黎明期。後に、壮大なスケールで人々の生涯を描く大長編小説を指す「大河小説」にちなんで”大河ドラマ”と呼ばれるようになったようです。

記念すべき第1作は「花の生涯」江戸幕府、幕末の大老、井伊直弼の生涯を描いた作品です。

原作は舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」平均視聴率20.2% 最高視聴率32.3%を記録しています。

舟橋聖一は1999年放送の第38作「元禄繚乱」でも原作が採用されています。

キャスティングと佐田啓二

幕末の大老、井伊直弼の波乱の人生を題材にした「花の生涯」の制作が決まると、脚本は小説家の北條誠が担当し、キャスティングの方針は”あらゆるジャンルのトップスターに出演してもらう”でした。

これによってNHKのドラマの製作者の映画スターを口説き落とす日々が始まります。原作者の舟橋聖一は井伊直弼役に当時の人気歌舞伎役者、尾上松緑とヒロインの村山たか役に宝塚歌劇団出身で映画界の看板女優、淡島千景の出演を熱望します。これを受けたNHKのプロデューサーは歌舞伎座や映画各社と交渉し、主役の井伊直弼役の尾上松緑は出演を認めてもらいました。

さらにNHKの制作陣は井伊直弼の謀臣と呼ばれた長野主膳役に当時の松竹のトップスター佐田啓二の起用を考えます。

しかし、当時の映画俳優は「五社協定」という、テレビに対抗する映画会社の既得権益を守る取り決めがあり「スターを貸さない、借りない、引き抜かない」の主義を打ち出していました。

NHKプロデューサーの合川明は佐田に原作と企画書を預けて佐田の自宅に通い、当時、幼かった佐田の息子の中井貴一らと仲良くなったり、佐田に高級酒を飲ませてもらったりと良い関係を築いていましたが、中々よい返事がもらえず、諦めかけて企画書と原作を持ち帰ろうとしたところ、ついに出演を了解してもらいました。

佐田は出演に難色を示していましたが、映画界の知り合いに相談したり、海外の友人からアメリカの進んだテレビ放送の実情を聞き、出演を決めたといいます。

佐田が出演を決めたことによって数多くのスターが出演(淡島千景、八千草薫など)、歌舞伎の名優、尾上松緑と映画のトップスター、佐田啓二の共演が実現し、豪華配役の夢の顔合わせが話題になりました。

今となっては名前を聞いたことしかない往年の大スターも多いですが、記念すべき第一作だけあって錚々たる顔ぶれです。

こうした草創期の苦労が今に至る大河の豪華配役に繋がってる訳ですね。

見逃した大河ドラマを視聴する

制作の苦労

豪華俳優が出演するにあたっては、主演の尾上松緑は歌舞伎の舞台に穴をあけない条件での出演であった等、多くの大物俳優のスケジュール調整が難航し、各シーンをバラバラに撮影する方法がとられました。また、テレビドラマで初めて美術、衣装、小道具、セリフ等の”時代考証”をつけました。

最大の見せ場の「桜田門外の変」の撮影シーンでは、当時「映画の撮影所にテレビカメラが入るなど考えられない」(テレビは当時、電気紙芝居といわれていた)と、言われている状況の中、NHKプロデューサーの大原誠が京都太秦の東映撮影所に交渉に通い、貸し出しを許可してもらいました。東映は撮影に承諾すると非常に協力的になったといいます。良い作品を作りたい熱意が伝わったのですね。こうした制作スタッフのDNAは現在の大河ドラマに受け継がれています。

井伊直弼と長野主膳

史実で見る井伊直弼は開国か攘夷かで揺れる幕末に、開国を主張し尊皇攘夷派を弾圧します。そして直弼の行った強権政治が勤王の志士達に恨まれて桜田門外の変で凶刃に倒れ、命を落とすことになってしまいます。

しかし開国を迫られた幕末に、日本の将来を見据え、果断なる決断力をもって開国を決意し、実行したのは優れた政治家として評価する声もあり賛否の分かれる人物です。

史実の井伊直弼 大老就任

井伊直弼

井伊直弼は徳川四天王の一人、井伊直政を祖とする近江彦根藩の13代藩主、井伊直中(いいなおなか)の十四男として生まれます。父の直中には実子が多かった為、他藩の養子となって他家を継ぐ兄弟がいましたが、人数が多すぎたので十四男の直弼は養子先が決まらず、自ら名付けた「埋木舎(うもれぎのや)」という邸宅で17歳から32歳までの15年間、身内の世話になる部屋済みの身でした。

しかし、これが幸いして直中の三男で彦根藩14代藩主となり、幕府の大老を勤めた井伊直亮(いいなおあき)に実子がなかったため、弟の直弼が直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定します。

井伊直弼はこうした境遇から部屋住み時代は熱心に国学や茶道を学び、茶人として大成します。ほかにも和歌や禅、兵学、武術などの修練に没頭し、聡明さを示していました。この頃、和歌や国史に通じていた長野主膳に傾倒し、弟子となったとされています。

養父の14代藩主の直亮が没すると直弼は家督を継ぎ、15代彦根藩主となり長野主膳を取り立て、藩政改革に着手します。直弼の彦根藩主時代は、仁政の藩主として有名で、後の安政の大獄で死罪となった吉田松陰は評判を聞いて「希代の名君」と評しています。

やがて彦根藩主となった直弼は、黒船来航の知らせを受けて江戸に出府し、幕政に関与していくことになります。当時、幕政を主導していた幕府の老中首座だった阿部正弘が死去し、後を受けた堀田正睦は開国の勅許獲得に失敗し、将軍継嗣問題もあって幕政は混乱します。

13代将軍、徳川家定は大老に直弼を推挙し、幕府老中からこれを伝えられた直弼は大老職を拝命し、混乱を収集していくことになります。開国を主導し日米修好通商条約の調印に踏み切ります。

病弱であった将軍家定が没すると紀州藩主、徳川慶福(後の家茂)が14代将軍に就任します。

これによって対立していた一橋慶喜(後の15代将軍)を将軍に推していた徳川斉昭(慶喜の父)らの一派を失脚させます。

こうした直弼の幕政に批判的な者を弾圧し(安政の大獄)後の桜田門外の変で凶刃に倒れることになってしまいました。

直弼の死によって幕府は弱体化し、後の明治維新へと繋がって行くことになります。

井伊直弼の謀臣 長野主膳と村山たか

井伊直弼を影で操ったといわれる長野主膳の前半生は不明な点が多く、伊勢の出身で生年は1815年、井伊直弼と同じ年とされています。年上の娘と結婚し、近畿、東海道の諸国を巡って後に、近江で私塾を開き、国学や和歌を教えていたとされています。

ある時、部屋住みの身の井伊直弼と和歌を通じて知り合い、主膳に傾倒した直弼は主膳の弟子として国学などを学んでいくようになります。やがて直弼が彦根藩主となると絶大な信頼をよせた主膳と共に藩政改革を断行していきます。

直弼が幕政に関わるようになると、主膳は江戸にて直弼の参謀的な役割を果たすようになり、安政の大獄においては強行な手段を直弼に進言するなどし、尊皇攘夷派から恨みを買う存在となります。

主膳は直弼が妾として寵愛していた村山たかとも深い関係になり、村山たかは主膳と直弼に加担する女工作員として活動していくことになります。

井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、主膳は直弼の後を継いで彦根藩主となった直弼の遺児の井伊直憲からは疎まれ、後に彦根藩に捕縛されて斬首されます。

村山たかは主膳の失脚後、連れ子を長州藩士に斬殺されて首を晒され、たか自身は生きながらにして三条河原に三日三晩さらし者にされました。後に京で出家して尼となり1876年に没します。

尾上松緑の演じた「花の生涯」あらすじ

ドラマでの尾上松緑の演じる井伊直弼は、彦根藩主の末子として、部家住みの身でひっそり暮らす家での長野主膳(佐田啓二)との出会いから始まり、絶世の美女、ヒロインの村山たか(淡島千景)が加わった複雑な関係が展開していきます。やがて幕府の大老となり、天下国家を論じる直弼と生涯、親交を共にした長野主膳が「桜田門外の変」を迎え、直弼は水戸浪士によって凶刃に倒れ、その後、腹心の主膳も命を落とし、たかは天寿を全うしていくことになります。

「花の生涯」を視聴するには

残念ながら現在、「花の生涯」全編を通しての映像は保存されておらず、わずかに第1話と第38話の断片が現存しているようです。大河ドラマの総集編が制作されるようになったのも3作目の「太閤記」からで「花の生涯」の総集編は制作されていません。

NHKには過去に放送した作品がすべて残っている訳ではなく、番組の保存に取り組み始めたのは1981年からなのです。過去の作品を収録した放送用ビデオテープは当時1本100万円ほどと、非常に高価で何度も上書きして使いまわしていたため、保存に取り組むまでの作品はほとんど残っていません。

家庭用VTRで録画された作品を、関わったスタッフや役者さんの協力の元に行われている発掘にて出てきた作品の映像に期待するしかありません。

歴史の古文書と同様に、いずれどこからか出て来ることがあれば、お目にかかることができるかもしれませんね。

 

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