三好長慶の寵臣として活躍した松永久秀 早すぎる主君の死と壮絶な最後

松永久秀歴史上の人物

戦国の三代梟雄(さんだいきょうゆう)として斎藤道三宇喜多直家と共に名の挙がる松永久秀(まつながひさひで)。

ダークヒーローとして取り上げられる事の多い久秀ですが、織田信長に出会う前の、三好長慶(みよしながよし)に仕えた前半生を追っていくと、智将としての違った人物像が浮かび上がってきます。

松永久秀の悪行」として語られる逸話は、後世の創作と思われる事が多く、例えば、三好家の乗っ取りや、信長への裏切り等は、追い詰められた久秀の行動であり、そこに至る過程をみていくと、三好長慶の下で活躍した智謀の策士(久秀)が長慶と嫡男、義興の早逝によって三好三人衆と対立したのが元凶であったように思えます。

信長を裏切って自害した背景には、足利将軍家や寺社勢力といった久秀と結びつきの強かった勢力があり、結果的に旧勢力を滅ぼした信長に敵対した裏切り者、と言われるようになってしまったのは明智光秀と似たものがあるかもしれません。

三好長慶の元で頭角を現す

松永久秀は出自は不明な点が多く、生年は1508年となっています。三好長慶に仕えるようになった経緯も不明な部分がほとんどですが三好家の譜代の家臣ではなかったようです。

三好長慶の地盤は四国の阿波ですが、長慶は室町幕府管領細川晴元の部将として畿内摂津を中心に勢力を伸ばしていきます。

参考:細川氏

そうした中、久秀は長慶の側近として重用され、出世していくことになります。

主君の三好長慶が細川晴元と対立するようになると、久秀は上洛した長慶の下で三好家の部将として活躍。河内や摂津といった畿内各地の戦いで活躍します。

京都支配では外敵からの防衛や、内政において、三好家の重鎮、三好長逸(みよしながやす)と共に、寺社との交渉役を務めるなどしています。

近江に逃亡していた細川晴元と13代将軍、足利義輝は京都奪還を試み、近江守護六角定頼(ろっかくさだより)の支援を経て三好軍と交戦しますが義輝方は苦戦が続きます。

義輝は三好長慶の暗殺も試みますが失敗に終わります。義輝派の軍勢が京に攻め上りますが、久秀は弟の松永長頼と共に大軍を動員して撃退、このことから六角氏の仲介により義輝と長慶の和睦が実現します。

久秀は勢力拡大していく長慶と、対立する義輝との調停役を努め、長慶と義輝が和睦すると長慶の嫡男、三好義興(みよしよしおき)と共に将軍の側近に加えられ、三好家中の重臣としての地位を築いていきます。一方で幕臣として将軍の義輝の供をする機会も増えていきます。

同じく長慶に重用された久秀の弟の長頼(ながより)は武勇に優れ、丹波平定に活躍します。

長慶に対立する畿内各地の戦いにも参戦し、大和を支配する筒井順慶(つついじゅんけい)を攻略、長慶から大和一国の支配を任され、居城を信貴山城に構えます。

こうして久秀は長慶の期待に応え、三好長慶の勢力拡大を良く支え、自身も畿内において権勢を強めていきます。

長慶の嫡男、義興と同等の待遇を与えられ、幕臣としても義輝の側近としての仕事を器用にこなしていきます。

しかし、三好家の繁栄を支えた長慶の弟の相次ぐ死と、将来を期待されていた嫡男、義興の急死も重なり、心労が重なったのか長慶も病没してしまいます。

義興が亡くなった時、久秀は非常に悲しんだといわれ、三好家の為に忠節を尽くしてきたことが伺えます。この頃、家督を嫡男の松永久道(ひさみち)に譲っています。

三好家の当主は長慶の甥、三好義継(長慶の弟、十河一存の子)が継ぐことになります。

義継(よしつぐ)は若年であった為、京都における三好家の重臣となっていた久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)が後見して支えていくことになります。

永禄の変

三好長慶が亡くなると、傀儡として実権を奪われていた足利義輝が将軍親政を目指し、活動を活発化させます。

三好長慶の存命中は三好勢と義輝は武力衝突を繰り返しながらも和睦に至り、協調体制を整えながら平穏を保っていました。

しかし、将軍の復権を望む義輝は、全国の大名の調停を行ったり、幕府の役職を与えるなどして将軍権威の復活に努めます。

こうした義輝の動きを警戒した三好三人衆と三好義継は久秀の嫡男、久通と共に軍勢を率いて上洛、室町御所の足利義輝を襲撃するという事件がおきます。(永禄の変)この時、久秀は大和国内の平定に力を注いでいました。

御所を囲まれた義輝の側には近臣の奉行衆が数十人しかおらず、取り囲んだ三好の軍勢は1万以上。

義輝側は侵入した三好勢に対して、激しく応戦します。塚原卜伝(つかはらぼくでん)に武術を学び、剣豪といわれた義輝も自ら武器をとり、奮戦しますが多勢に敵わず、大勢の奉行衆と共に討ち死にしてしまいます。義輝の生母は自害、弟の覚慶(還俗前の義昭)は幽閉されます。しかし、幕臣の三淵藤秀細川藤孝らに救出され、諸国を彷徨うことになります。

この時、義昭が殺害されなかったのは久秀の手引によるものといわれています。

三好三人衆との対立

義輝を殺害した三好三人衆は新たな将軍に堺公方足利義維の子で阿波に逃れていた足利義栄(義輝、義昭のいとこ)を担ぎだします。

この頃、久秀の弟で丹波平定に活躍した弟の長頼が敗死して三好氏の勢力圏となっていた丹波国を失います。長慶の下で共に引き立てられた長頼を失ったのは久秀にとって痛恨の出来事だったでしょう。

三好三人衆は義栄を掲げて四国の三好一族を味方につけ、勢力を伸ばし、畿内に影響力をもっていた久秀を危険視して対立。

14代将軍に就任した足利義栄が久秀の討伐令を出すと三好三人衆は筒井順慶らと協力し、久秀の本拠地、大和に攻め込みます。

三好家中で孤立した久秀は巻き返しを図りますが苦戦し、一旦、逃亡して行方不明になっています。嫡男の久通は久秀の留守中は多聞山城を守っていましたが周囲の諸城を攻略され、劣勢に立たされます。

そんな中、義栄を将軍に立て、三好家の実権を三人衆に握られた三好家の当主、義継は久秀の居城、信貴山城へ出奔してきます。

久秀はこれを契機に勢力を盛り返し、東大寺に布陣する三人衆を奇襲し、戦闘の際に東大寺の大仏殿が焼失してしまいますが三人衆の撃退に成功します。(東大寺大仏殿の戦い

後世、松永久秀が大仏を焼いた、などと言われることがありますが、戦闘中の失火により、やむをえず焼けてしまったと思われます。三好義継は三好三人衆の悪逆非道を訴え、久秀の三好家への忠誠心をほめています。四国を本拠地にもつ三好勢とは対立しつつも久秀は急死した長慶の子、義興や後を継いだ義継ら三好家当主には忠節を尽くしていました。

しかし、一度は撃退した三人衆は四国の軍勢を味方に勢いを盛り返し、信貴山城は落城。(信貴山城の戦い)再び劣勢にに立たされた久秀は足利義昭を擁立した織田信長の上洛に協力し、窮地を脱します。

信長の上洛

上洛に成功した織田信長に、久秀は佐久間信盛の仲介で「つくもがみ」と呼ばれる名高い茶器を献上し、恭順の姿勢を示して大和一国の支配を認められます。

三好長慶と共に在京の長かった久秀は、寺社との結びつきも強く、教養に長け、茶道に通じ、名物の茶器を多数、保有した文化人の側面もありました。これらの事が信長から信任されるのに役立ったようです。

信長に抵抗した三好三人衆は敗退を続けて勢力を弱め、畿内から駆逐され、阿波に逃れていきます。足利義栄も上洛することのないまま病没してしまいます。

空席になった将軍に足利義昭が就任すると、久秀と三好義継は幕臣として義昭の御供衆を努め、筒井順慶らによって荒らされた大和を信長の助力を得て、平定していきます。

将軍義昭の下で天下布武を目指す信長の朝倉攻めに参加。信長の姻戚となっていた浅井長政の裏切りで信長が窮地に立つと、近江の朽木元綱を説得して味方につけ、信長の京都への撤退を助けています。(金ヶ崎の戦い

その後も久秀は信長の戦いに協力。再び畿内に進出してきた三好三人衆との和睦をまとめるなどして信長に貢献していきます。

信長包囲網と本願寺

第二次信長包囲網

次第に畿内を平定していく信長と、将軍の権威を高めようとする義昭が対立すると、久秀は東で勢力を拡大する武田信玄と誼を通じ、義昭の形成した信長包囲網に応じて信長を裏切り、三好三人衆や三好義継と共に信長に敵対し挙兵します。

しかし、西上作戦を開始して三方ヶ原の戦い徳川家康を撃破した武田信玄が病没してしまいます。まもなく京で挙兵した足利義昭も信長に追放され、これを若狭で匿った三好義継が信長に滅ぼされ、三好三人衆も壊滅に追い込まれます。義昭は毛利輝元を頼って備後に逃れます。

久秀は信長に降伏し、佐久間信盛の寄騎として石山本願寺攻めに加わります。

石山本願寺は信長に抵抗し続ける一大勢力でした。

この時、信長は裏切った久秀を殺しませんでした。

大和は信長によって筒井順慶が守護に任じられ、まもなく順慶は明智光秀の寄騎となります。

仇敵であった筒井順慶が自分の本拠地であった大和の守護になったのは久秀の反逆の一因であったとされます。

第三次信長包囲網

その後、毛利輝元の元に落ち延び、再起を図っていた足利義昭が、再び信長討伐を呼びかけ、これに応じた上杉謙信が本願寺と結び、上洛を開始します。

佐久間信盛の下で本願寺攻めに加わっていた久秀は、息子の久通と共に戦線を離脱して信貴山城に籠り、再び信長に叛旗をひるがえします。信長は久秀の謀反に驚き、堺の代官、松井友閑を説得に向かわせますが、久秀は話を聞くこともなく拒絶。

こうして再び信長に背いた久秀には、上杉謙信の上洛で結んだ毛利輝元、本願寺の勢力が反信長で優勢に転じたことで勝算があったと思われます。

しかし、突如、北陸で上杉軍の侵攻が止まると、信長は久秀の嫡男、久通の人質の息子二人を六条河原で斬首します。そして織田信忠を総大将とする大軍を送り込み、大和の筒井順慶の軍勢も加わって信貴山城を包囲。久秀は奮戦し信貴山城はなかなか落城せず持ちこたえていましたが、やがて火の手が上がり、支えきれず、久秀は久通と共に自害して果てました。久秀は68歳、久通は35歳でした。

(自害の際に、久秀の持つ「平蜘蛛釜」という名物茶器を信長に渡すのを拒み、火薬を詰めて爆死した、との逸話があります。)

久秀の二度に及ぶ信長への謀反は、一度目は武田信玄の病没。二度目は上杉謙信の病によって挫折することになりました。

織田信長は度々、窮地に陥りながらも最盛期の信玄や謙信と直接対決しなかった事が強運であり、久秀にとっては不運でした。

松永久秀の評価

○三好長慶の重鎮であった二人の弟の死と、嫡男の義興の急死が久秀の仕業によるものとされる事がある。

○足利義輝の殺害(永禄の変)の首謀者とされる事がある。

○東大寺大仏殿が焼失

松永久秀の悪行として伝わるものがありますが織田信長を裏切った事から悪いイメージをもたれ、後世に創作された話のようです。

参考:松永久秀の三悪の解説

個人的には三好長慶が亡くなった後、三好家の主導権争いで対立した三好三人衆の悪行が久秀の行いにされたと思っています。

後の信長が安土城の築城の参考にした信貴山城などの築城技術にも優れていました。

三好長慶さえ長生きしていれば、と思わずにはいられません。

実際、三好三人衆と行動を共にした三好家当主となった三好義継は三人衆から出奔して久秀の元に駆けつけ、久秀の三好家への忠義を褒めた、という逸話もあります。

後に戦国を生き延びた同時代の細川藤隆とは対照的な最後でした。

 

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