戦国時代 三好長慶の勢力拡大を支えた優れた弟たちと室町時代の名家 細川氏の没落 

三好長慶歴史上の人物

戦国時代、畿内をまとめあげ、最初の天下人と呼ばれた三好長慶(みよしながよし)。
応仁の乱以降、足利将軍家の中枢で管領として権力を振るってきた細川氏を衰退に追い込み、最盛期の勢力範囲は畿内、四国を中心に10ヶ国以上に及んだ実力者です。

四国の阿波を本拠地とする三好長慶とその兄弟達は結束が強く、長兄である長慶は有能な弟達に支えられて勢力拡大を果たしていきました。

細川家に代々仕えた三好氏と、畿内を制圧した三好長慶。

細川家と足利将軍家を衰退に追い込んだ下剋上の背景を探ります。

三好氏と阿波

三好氏は細川氏庶流の阿波細川家守護を務める阿波の国の守護代を努める家柄でした。

血筋を遡ると清和源氏の名門、小笠原氏の庶流の末裔で鎌倉時代、阿波守護となった阿波小笠原氏が阿波三好郡を本拠にして三好氏を名乗りました。

室町時代中期の応仁の乱の際には三好長慶の曾祖父にあたり、主君の細川氏について東軍で活躍した知勇兼備の名将、三好之長がいました。

三好長慶は細川氏本家の家督争い(両細川の乱)で細川高国討伐に貢献しながらも、主君の細川晴元に謀殺された三好元長(三好之長の孫)の嫡男です。

父の元長が晴元の計略による一向一揆に責められて自害すると、長慶は母と共に阿波国へ逃れ、十歳で家督を継ぎました。

三好長慶と弟達

長慶には四人の弟がいました。

次男の三好実休(じっきゅう)、 三男の安宅冬康(あたぎふゆやす)、 四男の十河一存(そごうかずまさ)、五男の野口冬長(のぐちふゆなが)。

この四人の弟達が長男である長慶をよく支え、長慶の勢力拡大に貢献していきます。

猛将といわれた次弟 三好実休

兄の長慶が細川本家の当主、晴元に仕える事になると次男である実休は、阿波細川家の当主、細川持隆に仕えます。

やがて主君の細川持隆も自害に追い込み、その子の細川真之を阿波細川家の当主として擁立し、阿波の実権を握ります。この際に、五男で淡路の野口家の家督を継いでいた冬長は細川持隆をクーデターで殺害した際に、家臣たちとの争いに巻き込まれ戦死してしまいます。

こうして次弟の実休が三好氏の本拠地である阿波を阿波細川家の元で掌握しつつ、三好家の四国方面の軍勢を統括するようになりました。

猛将であったと伝えられる実休は、長慶の勢力拡大にともない、阿波の軍勢を率いて各地を転戦します。

後に河内守護、畠山高政との戦いで勝利を収め彼らを追放、河内守護を任されます。

しかし、紀伊の雑賀衆の援護を受けた畠山高政の反撃を受け、戦死してしまいます。享年36の早すぎる死でした。実休の後を継いだのは長男の三好長治です。

人望の厚かった悲劇の弟 安宅冬康

三男の冬康は、淡路の水軍衆を率いる安宅氏に養子として入り、家督を継承しました。 こうして冬康は淡路衆を率いて各地を転戦する事となります。

穏やかで優しい性格であったと伝えられた冬康は、戦で殺戮を繰り返す兄の長慶に対して、無駄な殺生を諌めたという逸話が残っています。

人望が高かったと伝わる冬康ですが各地を転戦する中、やがて次男の実休、四男の十河一成 、さらに長慶の嫡男、三好義興が相次いで死去してしまいます。

残った親族の有力者、冬康は兄の長慶をよく補佐しましたが、長慶に冬康を讒言する者(松永久秀の説あり)があり、これを信じた長慶に無実の罪を着せられ、自害させられます。去年37。さぞ無念の思いだったことでしょう。長男の安宅信康が跡を継ぎ、淡路衆を率います。

この頃、長慶は重い病で判断力が低下していたと考えられていますが 讒言によって殺害した冬康が無実であることを知り、長慶は相当後悔したと言われています。

その後、長慶は精神を病み、冬康の後を追うように病死してしまいます。

軍事面で多くの功績を誇った十河一存

四男の一存は長慶の命により讃岐十河城主の十河氏に養子に入り、家督を継ぎました。

一存も、兄たちと協力しあい、各地を転戦して三好家に貢献します。

軍事面で非常に優れた功績を残し「鬼十河」と呼ばれ、敵に恐れられました。

武勇に長けていた一存は軍勢をよくまとめ活躍しましたが 30という若さで病死してしまいます。

しかしこの一存の嫡男、義継が兄の長慶の養子に迎えられ、三好家の当主になる事になります。十河家の家督は次兄の実休の次男、存保が継ぎました。

長慶の勢力拡大

長慶はこうした弟たちの力を借りて智勇兼備の武将として成長し、四国の軍勢をバックボーンにして、無念の死を遂げた父の元長の敵の勢力を打ち破り、主君である細川家の家中に一大勢力を築き上げました。

細川氏本家の家督を継いだ細川晴元は長慶の父、元長を敗死に追い込んだ一向一揆が収拾がつかなくなったため、阿波に逼塞していた若年の長慶に仲裁を頼み、そのことから長慶は細川晴元の武将として仕えることになります。

晴元の元で活躍し、摂津を中心に勢力を拡大していく長慶でしたが、晴元は長慶と敵対する側近を重用し、長慶の意見を用いなかったため、長慶は、細川晴元に対して敵対していた細川氏綱(細川高国の養子)と結び、晴元に反旗を翻します 。

晴元の側近たちを打ち破ると 晴元は長慶を恐れ、12代将軍となっていた足利義輝を伴って近江坂本に逃げていきました。

足利義輝は京都奪還を目指して晴元らと度々長慶に戦いを挑みますが膠着状態が続き、細川晴元が氏綱に細川本家の家督を譲る事などを条件に長慶との和睦を受け入れ、上洛を果たします。

こうして細川晴元政権が崩壊した結果、勝利した長慶は細川氏綱と共に上洛し将軍義輝の元、氏綱を管領に擁立、長慶は細川家の家臣から将軍の直臣となり、四国、畿内を中心に10カ国に渡って勢力を拡大する大名となっていきます。

幕府の実権を握った長慶は応仁の乱以降の長い戦乱で荒れ果てた京都の復興に努め、堺の街を貿易港として整備するなどして内政にも励みます。

しかし、その後も実権を握る三好氏に反発する将軍義輝との対立や細川晴元の残党、畠山氏六角氏らと戦いを続けます。そうした中、四男の十河一存が急死。次弟の実休が畠山氏との戦いで戦死してしまいます。

長慶を支えてきた弟達が次々と先立ち、将来を期待していた嫡男の義興も22歳の若さで失います 。弟達や義興の死によって長慶の地盤はゆらぎ始めます。

長慶は十河一存の嫡男であった義継を養子に迎え、自分の後継者としました。

この頃の長慶は精神的に不安定であったとされ、残った弟の安宅冬康を誅殺してしまいます。

その後、自分が管領に押し上げた細川氏綱が病死。

少し前には細川晴元も病死しており、実権を握りつつも主君と仰いでいた細川氏の二人を失うと、長慶は讒言により殺害した三男の冬康のことを後悔し、病が重くなり享年43で病死してしまいます。

まとめ

長慶が没すると後継者の義継が家督を継ぎますが若年のため、三好家の重臣となっていた松永久秀三好三人衆が後見し、幼い義継を支えます。やがて松永久秀と三好三人衆は対立 。後の織田信長の上洛によって三好氏もまた衰退の道を辿っていくことになります。

三好長慶は優れた弟達や阿波を地盤とした三好一族の力を背景に卓越した政治力と軍事力で一大勢力を築きました。

穏やかな性格であったと伝えられ、父の仇である細川晴元や足利将軍家を追い込む事はせず、晩年は連歌を好む文化人であったといわれています。

しかし相次ぐ弟の死や嫡男であった義興の急死が長慶の支配基盤を弱めたため、長慶は精神的に不安定となり後継が育つ前に没しました。幼い頃から戦乱に明け暮れ、権力闘争を勝ち抜いた長慶は、波乱万丈の人生でした。

三好長慶が没すると畿内は混乱し、やがて足利義輝の弟、義昭を奉じた織田信長の上洛を招く事になっていくのです。

 

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