将軍家を巻きこんだ室町幕府の内乱 細川正元と三好長慶

歴史上の人物

室町幕府後期、応仁の乱以降 幕府の政権運営は管領家である細川氏本家によって握られていました。

しかしその細川氏本家は家督を巡る内紛が起こり、足利将軍家を巻き込んだ抗争となり幕府は弱体化していきます。

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細川政元と3人の養子

応仁の乱で東軍を率いた室町幕府管領細川勝元の嫡男、細川政元(ほそかわまさもと)は勝元が亡くなると8歳で家督を相続。13歳で管領に任じられます。

しかし、政元は10代将軍となっていた足利義稙(あしかがよしたね)と対立すると、クーデターを起こして11代将軍、足利義澄(あしかがよしずみ)を擁立し、義稙を幽閉、幕府の実権を握り、将軍を傀儡にして幕政を掌握します(明応の政変)。

政元は「半将軍」と呼ばれるほど細川家の勢力を拡大しますが、独身を貫いた為、実子がいませんでした。

このため細川本家の嫡流は途絶える事になり、政元は養子を迎えます。

関白九条政基の子、澄之(すみゆき)。阿波守護細川義晴の子、澄元(すみもと)(晴元の父)。細川氏一門、野州家の細川正春の子、高国(たかくに)。

この3人の養子で家督争いが生じ、巻き込まれた政元は暗殺されてしまいます。澄之は政争に敗れ自害。(永正の錯乱

その後、畿内の勢力や周防の戦国大名、大内義興(おおうちよしおき)を味方に付けた高国は、阿波の守護代、三好氏などの阿波勢を率いる澄元を破り、将軍の義澄を追放。(両細川の乱)足利義澄は将軍復帰が叶わず、病死してしまいます。

細川晴元

細川晴元は細川澄元の子で1514年に生まれています。 父の細川澄元は同族であった細川高国との戦いに敗れて阿波国に退去していましたが、澄元は高国に報いることのできないまま死去。

晴元は7歳で家督を継承し、後に阿波の守護代、三好氏の力を借りて中央政権に返り咲きます。

三好長慶の父、元長の死

中央政権では 父の敵、細川高国が実権を握っていましたが、反撃の機会を伺っていた晴元は13歳の時に三好元長(三好長慶の父) と共に挙兵します。

室町幕府11代将軍足利義晴(足利義澄の子)を擁立して幕府の実権を握っている細川高国に対して、晴元は義晴の弟、義維(よしつな)を擁立します 。

三好元長の助力を得て晴元は阿波から畿内へと進軍。 細川高国は将軍、義晴と共に近江へと逃げ去ります。 晴元と元長は和泉国を本拠地として、義晴の弟の義維を将軍候補として掲げ、堺公方を創設します。こうして近江に逃れた将軍義晴と細川高国に対抗します。

以後も、高国との抗争は続きますが、1531年、高国に味方していた 播磨の守護、赤松氏が寝返り、晴元の味方につくと、高国軍を破り、高国を捕縛して自害へと追い込みました。 (大物くずれ)

こうして細川高国を滅ぼした晴元は高国の元にいた将軍、足利義晴と和睦し、堺公方を放棄しようとします。

しかし高国討伐に活躍した三好元長は晴元の方針を巡って対立します。

元長が邪魔になった晴元は一向一揆をけしかけて元長を敗死に追い込みます。

元長は主君である晴元に見限られ、無念のあまり自害の際に、腹をかっさばいて自らの臓物を天井に投げつけたと言われます。

堺公方で将軍候補として擁立されていた足利義維は一揆から逃れて阿波に逃れ、堺公方は消滅します 。

将軍義晴と和睦した晴元は管領となり権力基盤を確立していきます。

三好長慶と足利義輝

中央政権に復帰した晴元は、自分のけしかけた一向一揆の鎮圧に手惑い、自分が敗死に追い込んだ三好元長の嫡男、三好長慶に一揆との和睦を働きかけてもらい、長慶を配下に組み入れました。三好長慶にとって晴元は父の仇です。

やがて晴元が滅ぼした細川高国の養子となっていた細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉で挙兵します 。

三好長慶らの軍勢によって、この反乱を一時は鎮圧しますが、やがて氏綱に長慶の動きを封じられ、京都に攻め登られた為、晴元は丹波の国へ逃亡します。 この頃、将軍義晴は病弱であったため、嫡男、義輝(よしてる)に将軍職を譲っています。

13代将軍となった義輝は近江の守護六角定頼管領代に任じます。

晴元は出陣中であったため 義輝の将軍就任の際に立ち会うことができませんでした。

まもなく三好長慶とも対立し、細川氏綱に寝返った三好長慶に敗北し、晴元は将軍となった義輝を連れて近江坂本に逃亡しました 。

こうして晴元や義輝らが不在となった京都において、三好長慶と細川氏綱が上洛。

三好長慶が幕府の実権を握りました。(三好政権

近江にて義輝とともに京都の奪回を目指していた晴元でしたが、将軍義輝は三好長慶と和睦して上洛し、細川氏綱が細川氏当主となります。

晴元はこれを認めずに出家してしまいます。

その後も度々、三好長慶と対立し、争いますが三好軍に敗退し、晴元の子で次男の晴之が戦死してしまいます。

晴元は摂津に幽閉され1563年、死去、享年50。家督を継いだのは 嫡男の昭元です。

細川昭元は、勢力を取り戻せず、後に15代将軍となった足利義昭に臣従し織田信長豊臣秀吉に仕え、名家の出身として寵遇され1592年に病死したとされています。

細川政元の後継家督を巡って争った細川氏の内部分裂は阿波守護代を努めていた三好家の三好長慶によって下剋上にあい、勢力を弱め衰退してしまいます。

同時期に名を挙げた細川藤隆(幽斎)は細川氏の分家である和泉半国の守護、細川元常に三ツ渕家から養子として入り、戦国を生き延びて後の肥後熊本藩、細川家の礎を築きました。

 

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