長良川の戦い 斎藤道三の終焉と美濃をまとめた義龍

戦国時代 美濃歴史上の人物


長良川の戦いは1556年、美濃の長良川流域で斎藤道三と嫡男、斎藤義龍が争い、道三は討ち取られ、義龍の勝利に終わります。

斎藤道三の嫡男 斎藤義龍

土岐頼芸と深芳野

斎藤義龍(さいとうよしたつ)は1527年 斎藤道三の長男として生まれます。 母は道三の側室、深芳野(みよしの)。

深芳野の出自は美濃の国人、稲葉道則稲葉一鉄の父)の娘とされていますが、室町幕府の守護大名一色家の出身という説もあります。

母の深芳野は斎藤道三によって追放された美濃國守護土岐頼芸(ときよりのり)の愛妾でした。

しかし、1526年に頼芸の家臣であった斎藤道三に下げ渡され、深芳野は翌年の1527年に義龍を生みます。 深芳野が道三の側室となってから義龍を生むまでの期間が短かった為、義龍は土岐頼芸の落胤という説もあります。

こうしたことが後の道三と義龍の不和の元であったと思われます。

父の斎藤道三は関係が悪化していた守護の土岐頼芸を追放すると、事実上の美濃の国主となり、 正室の小見の方の娘、帰蝶(きちょう)を、尾張の織田信秀の嫡子、織田信長に嫁がせ、反抗勢力を駆逐し、美濃を完全に平定しました。

1554年に道三は家督を嫡男、義龍へと譲り隠居します。
義龍は追放された土岐頼芸が自分の父親かもしれない疑念を道三に対して抱きます。

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義龍の兄弟

しかし、道三は義龍の二人の弟、孫四郎喜平治を可愛がり、義龍を疎むようになります。

このため孫四郎と喜平治は奢りたかぶり、義龍を侮るようになったと言われています。

こうした道三の振る舞いや政策に義龍は不満を抱え、自身が廃嫡されるのではないか、という危機感をもち始めます。

このため義龍は重臣の長井道利と共謀し、1555年、二人の弟を家臣に命じて殺害し、隠居していた道三に対して挙兵します。

長良川の戦い

こうして二人の弟を殺害した義龍は道三に使者を送り、弟殺害の事の顛末を道三に伝えました。

道三は慌てて急ぎ兵を集めて城下から逃走します。

道三と義龍の不仲は決定的なものとなり、二人は長良川を挟み激突します。

隠居していた道三に味方しようとする家臣は土岐家の旧臣をはじめとし、ほとんどいなく 道三に味方する兵は2500あまり、一方の義龍は旧土岐家の家臣団を合わせると17000以上と、圧倒的な兵力差で義龍が優勢でした。

戦闘がはじまると乱戦の中、圧倒的な兵力差で道三勢が崩れ、義龍の家臣に道三は討ち取られました。

道三は、このときの義龍の采配ぶりを見て自身の義龍への評価を改め、後悔したといわれています。

道三の娘婿にあたる織田信長は道三の危機を聞き、援軍に駆けつけますが合戦には間に合いませんでした。

義龍は道三に味方した美濃、明智城の明智氏なども 同時期に攻め滅ぼしています。

長良川の戦いで勝利した義龍軍は、援軍を差し向けてきた信長軍にも襲いかかり 信長は自ら殿を務め撤退に成功します。

父の道三を討ち取った義龍は、やむを得ない事情によって道三を討ったとして長年の内乱で混乱していた国内を平定していきます。

織田信長との関係

その後、義龍は足利氏の一門である名家の一色氏を名乗り、時の将軍、足利義輝より改名を許されます。(義龍の生母、深芳野が一色氏の出身であった為と言われています)

まもなくすると官位を賜り、室町幕府の将軍を補佐する相判衆にも列せられました。

道三の実子ではないという噂を逆手にとり、 土岐氏の敵討ちをした、という大義名分を得て義龍は内政にも手腕を発揮し、美濃国内をまとめあげ、戦国大名としての基盤を築きました 。

道三亡き後の美濃を伺う織田信長にも対抗して陰謀をめぐらし織田家中を混乱させ、美濃に寄せ付けませんでした。

この間に、織田信長が家臣を連れて上洛の途上、火縄銃を使った狙撃で暗殺を試みますが失敗しています。

こうして美濃の国主として地盤を固めた義龍でしたが1561年に突如、急死してしまいます。家督は義龍の子、龍興が継ぎます。

義龍の急死により家臣達は動揺し、後を継いだ龍興は酒色に溺れ、政務を顧みようとせずに家中をまとめられず、織田信長の侵攻により美濃を追われます。

信長に抵抗していた龍興でしたが、後に、越前朝倉氏の元に身を寄せて客将となり、保護されますが、朝倉軍と信長との戦いで戦死してしまいます。

まとめ

父の道三に疎まれたことから 長良川の戦いにて道三を討ち、美濃の大名として織田信長と敵対した義龍でしたが 斎藤道三は生前に、美濃国は織田信長に譲る、という遺書のようなものを書いており、義龍は道三から認められていなかったとみられます。

出生の定かではない義龍は父親に認められたい一心で弟を殺害し、織田信長と敵対しながらも、時の将軍家に認められ、その手腕を発揮して美濃の大名となった義龍。

義龍の後を継いだ龍興は信長の美濃侵攻を止められず、家臣の離反を招き、美濃は信長の支配下に組み込まれていきます。

斎藤父子の対立の原因は、土岐頼芸から斎藤道三に下げ渡された義龍の母、深芳野が発端であったかもしれませんね。

 

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