細川藤孝(幽斎) 明智光秀の盟友  戦国を生き延び肥後熊本藩細川家の礎を築いた戦略家の手腕

歴史上の人物

足利将軍家の幕臣から足利義昭を見限り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を変えながらも、世渡りの上手さで戦国時代を生き残った細川幽斎。

江戸時代から廃藩置県まで存続した肥後熊本藩の祖、細川忠利の祖父にあたります。

幼名は万吉といい、12歳で元服、細川藤孝(ほそかわふじたか)と名乗るようになります。

晩年、織田信長が本能寺の変で討たれると信長に弔意を示し、剃髪して幽斎(ゆうさい)と号しました。

足利将軍家の幕臣として

1534年、細川藤隆は京都東山にて室町幕府12代将軍、足利義晴に仕えた幕臣 三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として誕生しています。

藤隆の生母 慈恵院は、13代将軍 義輝の父、足利義晴から下げ渡されて晴員の後妻となった為、藤孝は足利義晴のご落胤であるという説もあります。

次男であったため、7歳で 和泉半国 守護家の細川元常の養子となり、足利義輝(当時、義藤と名乗っていた) の諱を拝領して藤孝と名乗ります。

父の三淵晴員は15代将軍足利義昭の代まで足利氏に仕え、1570年に71歳で没しています。

兄は同じく室町幕府に仕え、足利義昭の重臣となる三淵藤英(みつぶちふじひで)です。

藤隆は幕臣として兄の三淵藤英と共に義輝に仕え、18歳の時に官位を授かり、幕府のエリート官僚となっていきます。

武術と教養を身に付ける

将軍足利義輝と同じく剣豪塚原卜伝から剣術を学んだとされています。

力自慢としても有名で 京の町で牛車が暴走して人々が逃げまどってるところを藤隆は牛の角を掴んで暴走を止めたというエピソードがあります

他にも武田流の弓術、馬術、礼法を身に付けています。

茶道なども学び、和歌を嗜み、当時最高の教養を身につけていました。

和歌に関しては「古今伝授」という古今和歌集の解釈の秘伝を授かった伝承者で、藤隆は当時の一流文化人でした。この「古今伝授」が後の関ヶ原の戦いの際に藤隆を救う事になります。

正室 沼田麝香(じゃこう)

21歳で細川家の家督を相続します。

1562年には若狭国熊川城主、沼田光兼の娘、麝香(じゃこう)を正室に迎え、翌年には嫡男、細川忠興が誕生しています。

藤隆は愛妻家であったことで知られ、生涯 側室、妾を持たず麝香との間に 6男2女をもうけています。

後の関ヶ原の戦いの際には嫡男、忠興(ただおき)が東軍の徳川家康に味方した為、西軍が城に押し寄せると、麝香は具足を身に着け、留守を預かっていた藤隆と共に、田辺城に残っている兵を集めて奮戦したとあります。

永禄の変

12代将軍義晴の後を継いで13代将軍となっていた義輝に仕えていた藤隆ですが将軍義輝は1565年に起きた永禄の変と呼ばれる政変で三好三人衆によって殺害されてしまいます。

義輝の弟、周嵩は殺され、母の慶寿院は自害。義輝の側室の小侍従は身ごもっていたため殺害されています。

この時、義輝のもう一人の弟、義昭は仏門に入って興福寺で覚慶と名乗っており、捕縛、幽閉されますが三淵藤英、細川藤孝らの幕臣によって助けられて脱出し、近江国矢島にて覚慶は還俗、将軍候補として擁立します。その後、近江の六角氏、若狭の武田氏を経て越前の守護大名、朝倉義景を頼ります。

藤隆はこの義昭の放浪の際につき従い、義昭の将軍擁立に奔走することになります。

そして越前の朝倉義景の下で明智光秀を通じ、織田信長の助力を求めることになるのです。

足利義昭と藤隆

明智光秀の仲介により織田信長を頼って尾張に移った義昭は、信長の警護によって京都に上洛を果たし、1568年将軍宣下を受けて15代将軍となります。この頃、明智光秀は義昭と信長の両属の家臣となっています。

しかし、義昭の側近として仕えていた藤孝は次第に義昭と信長の対立が表面化していくと、義昭が信長に逆心をいだく節があることを信長に知らせ、義昭が信長包囲網を形成し、挙兵した際に袂を分かちます。

兄、三淵藤英の切腹

この際、義昭の重臣となっていた兄の三淵藤英は藤隆の行動に激怒し、義昭に従って二条城に籠城しますが信長の大群に囲まれ、柴田勝家の説得を受け入れて降伏します。

義昭の籠もった槇島城は織田軍の攻撃により陥落、義昭は信長に降伏してしまいます。(槇島城の戦い

こうして信長は京に戻り、藤隆は恭順の姿勢を示します。

将軍義昭が信長に追放されると室町幕府は事実上滅亡、三淵藤英は信長の命により藤隆と共に義昭側の幕臣、岩成友通を責め、これを討ち取っています。

しかし、藤英は後に信長から所領を没収され、明智光秀のもとに預けられ、自害を命じられてしまいます。

信長の元で

藤隆は信長から山城国長岡の知行を許され長岡藤孝と名乗りました。その後、織田信長の部将として明智光秀らと共に畿内各地を転戦し、功を挙げます。

藤隆が参戦した主な戦い

  • 第二次淀古城の戦い
  • 高屋城の戦い
  • 越前一向一揆征伐
  • 石山合戦
  • 紀州征伐
  • 黒井城の戦い
  • 信規山城の戦い(松永久秀討伐戦)

明智光秀の寄騎

織田家の有力武将となった藤隆は信長の斡旋により、藤隆の嫡男、忠興と、明智光秀の娘、たま(ガラシャ) の婚姻が成り、明智家と細川家は姻戚となります。

信長の下で出世し、丹波国を平定した明智光秀は機内方面軍の司令官となっており、藤隆や大和国筒井順慶らは光秀の寄騎として配属されます。光秀の加勢によって藤隆は丹後の国の南部を平定し、信長から丹後南半国の領有を認められて宮津城を居城とし、12万石の大名となりました。

本能寺の変と山崎の戦い

1582年 謀反を起こした明智光秀に本能寺の変において織田信長が討たれます。

本能寺の変の時、藤隆は嫡男の忠興と共に、中国地方で毛利軍と対陣している羽柴秀吉を援護する為、備中高松城に向けて進軍しているところでした。

藤隆は本能寺の一件を知らされると、すぐさま居城に軍を引き返し、光秀の要請を断り信長に弔意を示して剃髪し、幽斎と名乗ります。 そして田辺城に隠居し、家督を嫡男の忠興に譲りました。

その際に明智家から嫡男、忠興の正室として細川家に入っていた光秀の娘、ガラシャを幽閉し、明智家と距離を置いています。 光秀は中国から引き返してくる秀吉との対決の前に、細川父子に味方になるよう要請します。書状にて、細川家に後事を託し自分は隠居するとまで記して援軍を頼みました。 しかし細川親子は中立の立場を崩さず、動きませんでした。

この際、光秀は期待していた細川父子、そして大和の筒井順慶の加勢を得ることができず山崎の合戦にて羽柴秀吉に敗れ、討ち取られます。

秀吉そして家康

明智光秀が没すると羽柴秀吉が織田家を掌握し、秀吉は光秀に与しなかった文化人としても名高い幽斎を重用するようになります。

嫡男細川忠興と関ヶ原

光秀が山崎の戦いに敗れ、敗死すると細川親子は羽柴秀吉に仕えるようになります。

嫡男、忠興は 丹後全域の領有を許され 豊臣家の家臣として 徳川家康の推挙により丹後及び豊後6万石を合わせて18万石の大名となりました。

幽斎は秀吉に重用され、隠居の身でありながら知行を受けて秀吉のそばにあり 文化人として千利休らと共に寵遇されました。

秀吉の下で五大老となっていた徳川家康とも交流があり、秀吉が亡くなると家康に接近しています。

幽斎の嫡男、忠興も茶道に通じ千利休の高弟の一人となっています

1598年に秀吉が死去すると 五大老筆頭の徳川家康が勢力を伸ばし、1600年石田三成が挙兵します。 石田三成は家康と共に会津の上杉討伐に出陣した諸将の妻子を大坂で人質に取ろうとし、細川忠興の夫人ガラシャは包囲された細川屋敷で人質になるのを拒み、自害しました。

田辺城の戦い

幽斎は東軍の徳川家康についた忠興の留守を丹後田辺城にて守り、西軍15000の大軍に包囲されましたが 500に満たない兵で籠城し、激しく抵抗します。

攻め寄せた西軍には幽斎の歌道の弟子も多く従軍しており、攻撃に積極性を欠きます。この為、城は40日以上持ちこたえ、幽斎の弟子の一人であった八条宮 智仁親王が両軍に講和を働きかけますが幽斎は拒絶。「古今伝授」の伝承者である幽斎を惜しんだ朝廷の勅命により幽斎は講和を受け入れ、関ヶ原の戦いの二日前、田辺城は開城しました。

この幽斎の籠城によって西軍15000は関ヶ原本戦に間に合わず、家康の東軍勝利に貢献する結果となります、

こうして幽斎は丹波亀山城に入ります。 忠興は関ヶ原の戦いにおいて石田三成の軍と戦い、戦後に豊前小倉藩39万石に封じられます。 その後、長岡姓から細川姓に戻り、後に忠興は三男の忠利に家督を譲り、忠利は加増を受けて肥後熊本54万石の大名となり、細川家は幕末まで存続していきます。

幽斎は京都にて悠々自適の隠居生活を送り京都の自邸で、77才で没しました。

まとめ

室町幕府の幕臣の家に生まれた細川幽斎。 しかし応仁の乱以降の足利将軍家は、有力家臣に悩まされ将軍としての権威を失っていました。

復権を目指し立ち上がろうとした13代将軍義輝も永禄の変で倒れ、その弟の義昭も頼った信長に逆に追放されてしまいます。

こうして幽斎は主君を足利義輝、足利義昭、織田信長、そして豊臣秀吉、徳川家康と変えていきますが数々の苦難に遭いながらも 最終的には細川家を守り抜き、その孫の細川忠利の代には肥後熊本の大名となって現在までその血筋は伝わっています。

類稀なる文武の才によっ 見事、戦国時代を生き延びた細川幽斎。 まさに芸は身を助けるを地でいった人といえますね。

 

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