徳川家康に影響を与えた今川義元の名軍師 「黒衣の宰相」太原雪斎

歴史上の人物

徳川家康が幼少時に人質として過ごした駿河の守護大名今川義元

そしてその義元の軍師、「黒衣の宰相」として名高い太原雪斎

戦国時代の僧は大名の参謀的な役割も担う知識人が多く活躍し、雪斎もまた、今川義元のブレーンとして大きな役割を担いました。

幼少期の徳川家康に多大な影響を与えた太原雪斎の人物像に迫ります。

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太原雪斎 今川義元の養育係から軍師へ

太原雪斎は1496年、今川家の家臣、庵原氏の元に生まれました。 幼い頃より僧として修行中であり、秀才として名高かった雪斎はその声望の高さから、駿河の守護大名今川氏親(いまがわうじちか)の声がかかり、氏親の三男、義元(よしもと)の養育係を務めるようになります。 この際、氏親から今川家の家臣として働くようにとの誘いを受けていますが2度ほど断っていたようです。

頭脳明晰で将来を嘱望されていた雪斎は、養育係として幼い義元に兵法なども教え、共に寺で修行に励みます。この時期に京都で公家との交流も深めています。

今川氏親の死と花倉の乱

義元の父である氏親が死去すると、今川家の家督は 嫡男の氏輝(うじてる)が継ぎます。
この氏輝は家督継承時は14歳と若年であったため、母の寿桂尼(今川氏親の正室)が後見人として補佐します。

やがて雪斎は氏輝の命を受けた義元と共に修行先から駿河へと戻ります。

しかし、この氏輝が24歳の若さで死去すると、今川氏親の次男も同日に急死した為、三男の義元に家督継承権が周り、これに反対する今川家の重臣の福島氏が氏親の側室の子であった玄広恵探(げんこうえたん)を擁立し家督を争います。

この時、雪斎は寿桂尼とともに、相模の北条氏を味方につけて義元の家督相続に尽力し、花倉城で抵抗する玄広恵探を自害に追い込みます。(花倉の乱)

こうして義元は還俗して今川家の家督を相続し、雪斎を厚く信頼し、今川家の顧問として重用するようになります。 雪斎は太原崇孚(たいげんすうふ)と名乗り僧侶としても名高く、今川氏輝の菩提寺 臨済寺の住職にも任命されています。

太原雪斎の外交戦略

義元が家督を相続すると、雪斎は外交面でも活躍します。

関係の悪化していた甲斐の守護大名、武田信虎の娘(定恵院)を義元の正室に迎え、信虎の嫡男、晴信 (武田信玄) に今川家の遠縁である三条の方を嫁がせ、甲駿同盟を成立させます。

さらに尾張の織田信秀が三河の岡崎に侵攻してくると、 岡崎城主松平広忠(家康の父)の救援要請に応じて雪斎は広忠の嫡男、竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出す事を条件に、大将として今川軍を率いて織田軍を打ち破り(小豆坂の戦い)、その後、安祥城を攻め、織田信広(信長の兄)を人質にとります。

この間に織田家に奪われていた松平家の人質、竹千代を織田信秀との交渉で人質交換により今川家に取り戻しています。

こうして義元の元に松平家の人質として入った竹千代は雪斎に見込まれ英才教育を受けたとされています。

この雪斎の教育が後の徳川家康に軍事面、政治面で多大な影響を及ぼしたと言われています。

僧侶姿で軍を率い、内政にも辣腕を振るう雪斎は「黒衣の宰相」として名を轟かせました

義元の正室であった定恵院が死去すると武田家の家督を継いでいた武田晴信の嫡男、義信に今川義元の娘(嶺松院)を嫁がせ、武田家との関係も強化します。

さらに相模の北条氏康に働きかけ、義元の嫡男、氏真に氏康の娘(早川殿)を嫁がせました。

こうして雪斎は今川義元、武田晴信、北条氏康の三者を結びつけ甲相駿三国同盟の締結に尽力しました。

今川家は雪斎無くてはならぬ家

雪斎の軍政両面に渡る活躍により今川義元の勢力範囲は駿河、遠江に加えて三河にも勢力を伸ばします。

今川家の地盤が固まってくると義元の父、今川氏親が制定した分国法を追加補足するのに寄与し、商業政策なども積極的に行い内政を充実させ、今川氏の勢力拡大に大きく貢献しました。
こうした今川家の全盛期の中、雪斎は突然病に倒れ、60歳で病没してしまいます。 これから上洛を目指す今川義元にとっては大きな痛手でした。
武田信玄の軍師として名高い山本勘助は、「今川家は雪斎無くてはならぬ家」と評しており、 周辺諸国からも今川義元のブレーンとして高く評価されていたことがうかがえます。
この雪斎の今川義元の軍師として担っていた役割は大きく、雪斎亡き後の今川家の運命は衰退をたどっていくことになります。

 

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