室町時代に栄華を誇った足利将軍家 足利尊氏の室町幕府開府から応仁の乱そして戦国時代へ

歴史上の人物

室町幕府の将軍家として名高い足利氏(あしかがし)。

足利氏は、清和源氏の嫡流、河内源氏に連なる武家の名門です。

平安時代の後期、後三年の役で活躍した鎮守府将軍、陸奥守となった源頼義の息子、八幡太郎義家

その義家の三男である源義国が下野國足利荘に土着し、足利氏を名乗ったのが始まりです。

南北朝時代に活躍し、室町幕府を開いた足利尊氏に始まり、 戦国時代、織田信長の追放によって 室町幕府 滅亡となった15代将軍義昭まで。歴史の表舞台に登場してきた足利将軍家を追ってみます。

南北朝時代と足利尊氏

室町幕府の初代将軍となった足利尊氏

1305年、足利氏本家の棟梁、足利貞氏の次男として生まれました。

長男は早世しています、

母は上杉氏二代目当主、上杉頼重の娘、清子です。

北条氏一族の有力者であった赤橋守時(鎌倉幕府十六代執権)の妹、赤橋登子を正室に迎えています。

当初は 倒幕を企図した後醍醐天皇の討伐軍として参加していましたが、鎌倉幕府が衰退すると、 後醍醐天皇の倒幕に協力し、六波羅探題を滅亡させるなど活躍します。

鎌倉幕府の滅亡後には、 後醍醐天皇から勲功第一とされ、 鎮守府将軍となり、所領を与えられています。 1335年に 北条氏残党の反乱が起きると、 尊氏は弟の直義と共に相模川の戦いで、北条高時の遺児、時之を破り、鎌倉を回復しました。

後醍醐天皇の建武の新政では距離を置き、鎌倉を本拠として武家政権の基盤を築き始めます。

後に後醍醐天皇に叛き、倒幕では共に戦った楠木正成新田義貞らを湊川の戦いで破り、京都を制圧します。

後醍醐天皇は比叡山に逃れ抵抗しますが、尊氏が擁立し、北朝の二代目となって即位した光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立しました。

後醍醐天皇は吉野に自らの朝廷を開き、南北朝時代となっていきます。

当初は弟の直義に政務を任せ、尊氏は武士の棟梁として二元政治を取っていましたが、家臣の対立などにより直義と決裂。(観応の擾乱

直義が失脚すると、嫡男の義詮(よしあきら)が政務を任されます。

1358年に尊氏が没すると、義詮は征夷大将軍に任命されました。

尊氏の死後、混乱する政権を安定させるのに努めます。

三代将軍 義満と室町幕府

1367年、幕府の安定に努め、将軍権力を高めた二代将軍、義詮が没すると、 義詮の嫡男、義満(よしみつ)が、わずか十歳で将軍家の家督を継ぎました。

元服の際、義詮に管領に任命された細川頼之が後見し、 頼之の補佐の元、足利一門の守護大名の主導により、幕府権力を固めていきます。

1374年に日野業子を正室に迎えます。

建武の新政に活躍した公家の名家、日野家との婚姻により、 朝廷への影響力を強めます。

1378年に 京都の室町に邸宅を移し(花の御所)、 このことが由来して室町幕府と呼ばれるようになります。

幼くして将軍となった義満でしたが、有能な家臣団に恵まれ強固な地位を築いていきます。

その後、守護大名の山名氏大内氏の反乱を治め、 義満の力は絶大なものになっていきます。

官位も順調に昇進を重ね、最終的には太政大臣にまで上り詰めます。

武家が太政大臣に任官されたのは平清盛に次いで二人目です。

さらに、征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは義満が初めてです。

この義満の代が、室町幕府の権力の最盛期であり、 南朝と北朝に分裂していた朝廷を統一

権力の象徴として金閣寺を建立。

明との貿易も盛んに行い、 猿楽師の観阿弥世阿弥を庇護し、能を奨励するなど、 栄華を極めました。 1408年 死去。

四代将軍は嫡男として扱われた義持(よしもち)が務めます。

義持は父の義満の死後、勢力を盛り返す守護大名の調整役として所領を安堵するなどして政権の安定に努め、1423年,嫡子の義量(よしかね)に将軍職を譲り出家します。

くじ引きで将軍になった六代将軍 義教

義持の嫡男、義量が17歳で五代将軍に就任しますが19歳で急死した為、義持が将軍を代行します。

幕政を主導していた義持は後継者を定めないまま死去。

そのため、重臣達は評議の結果、義持の弟4人の中から1人を、生前に義持が了承していたくじ引きで決めることになり、六代将軍は出家していた義持の弟、義教(よしのり)が就任します。

1429年、還俗して将軍となった義教は支配力を強化する為、独自の軍事力を強めようとし、 守護大名の家督相続にも強引に介入するなど強権的な政治を主導。

九州征伐を命じて実行。九州探題を置き、九州を支配下におきます。

義教は自分の意にそぐわない大名を誅殺するなど厳しい処断を実行し、守護大名を抑圧して不安を与えます。

こうした事もあって室町幕府創業からの功臣であった赤松氏に殺害されます。

義教の死後は嫡男の義勝(よしかつ)が七代将軍となります。

しかし、義勝は僅か10才で死去してしまいます。

義勝の死後、将軍となったのは応仁の乱を起こした事で名高い、義勝の弟の義政(よしまさ)です。

応仁の乱と日野富子

八代将軍となった義政は、当初は積極的に政治に参加する姿勢を見せます。

しかし、正室に迎えた日野富子や有力な守護大名の介入により、 義政の意のままに政治を動かすことはできませんでした。

さらに飢饉や災害が相次ぎ、義政は日本庭園の造営や猿楽、酒宴に溺れていきます。

次第に義政は政治に興味を失い、隠居を考えるようになります。

正室の富子や側室との間に嫡子が恵まれなかったため、 出家していた弟の義視(よしみ)を 還俗させて養子とし、次期将軍に決定しました。

しかしその後に富子に男児が誕生しました。

富子は自分の生んだ男子(後の義尚)の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名宗全に協力を頼みます。

一方で次期将軍に決定していた義視は、管領の細川勝元と手を組みました。

そんな中、義政はどちらにも将軍を譲らず、 趣味に興じて優柔不断な態度を続けます。

そうした状況の中、 室町幕府管領家の有力守護大名、畠山氏斯波氏の家督争いから、将軍継承問題もからみ、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、 全国に争いが拡大していきました。(応仁の乱)

各地の守護大名を巻き込み、 細川方を東軍とする斯波家、畠山家、京極家、武田家。

山名方を西軍とする斯波家、畠山家、一色家、土岐家、大内家に分かれ、全国規模の戦いへと発展していきました。

10年にも及ぶ戦乱の中、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元が相次いで死去します。

そうした中、義政が富子の生んだ義尚(よしひさ)に将軍職を譲って隠居してしまいました。

こうしたことによって、義尚の母、富子の勢力が拡大し、 義政の実権は失われていきます。

その後、義政の弟の義視が恭順を誓い、和睦の流れが加速します。

義政に頼まれて将軍になるために還俗までした義視は気の毒です。

京都市街は戦火で焼失。 将軍職を譲った義政は、文化的な活動に拍車がかかり、 銀閣寺を建てるなどして政務からの引退を表明しました。

しかし九代将軍となっていた義尚が六角氏討伐の遠征中に戦没したため、義政は土岐氏の元に亡命していた義視の嫡男、義稙(よしたね)を養子に迎え、後事を託して亡くなります。

幕府の弱体化と戦国時代

こうして義政の後継者として、義稙が十代将軍に就任しました。

当初は義稙の父の義視が大御所と称して政治の実権を握っていましたが、 義視が死去すると、義稙は独自の権力基盤の構築に努め、そのため管領であった細川政元や日野富子らがクーデターをおこし、八代将軍義政の兄である堀越公方足利政知の子、義澄(よしずみ)を十一代将軍に擁立します。(明応の政変

こうした動きによって義稙は将軍職を廃され、 幽閉されましたが、 脱出して将軍復職を目指し、13年に渡る逃亡生活を送ります。

義稙は越中の畠山氏、越前の朝倉氏などを頼りますが、後に周防の守護大名、大内義興の支援を受けて将軍職に復帰。

十一代将軍となっていた義澄や管領の細川澄元を追放します。

その後、将軍職を巡って義稙は義澄派と抗争を続けます。

義澄は義稙の暗殺を謀りますが失敗。

近江の六角氏を頼り、将軍復帰を目指しますが、 32歳で病死してしまいます。

こうして義稙の将軍復帰が確定します。

しかし、義稙は、大内義興が帰国すると細川家の後継者で、管領となった細川高国と対立。

義稙は高国の影響下の京都を離れて、 和泉国へと出奔します。

高国は義稙に代わる新将軍として、十一代将軍義澄の遺児、足利義晴(よしはる)を擁立します。

その後、義稙は再起を謀って高国と抗争しますが、敵わず、阿波国で死去、享年58。

こうした幕府内部の後継者争いに加えて、各地の守護大名の内紛等により、幕府は弱体化していき、下剋上の世の戦国時代へと突入していきます。

戦国時代の足利将軍家

 

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