悲劇の将軍 足利義輝 戦国時代から室町幕府滅亡へ

歴史上の人物

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応仁の乱以降、 足利将軍家の権威は衰え、有力大名の支持がなくては、将軍の地位すら保てない状態となりました。

室町幕府の有力守護大名、細川氏の内紛の影響から将軍は目まぐるしく変わり、各地で下剋上の起こる戦国時代へと入っていきます。

幕府の実力者 細川家の内紛と将軍 義晴

十二代将軍となった足利義晴(よしはる)は、幕府の実力者で、管領細川高国によって擁立されました。

しかし、管領であった細川家に内紛が起こり、そのため義晴は京と近江を行ったり来たりする様になります。

義晴が十二代代将軍となった当時の管領は細川高国でしたが、 同族の細川晴元 との争いに敗れ、自害に追い込まれます。

細川氏の家督争いに勝利した晴元は足利義維(よしつな)を擁立し、堺公方という臨時政権を建てました。

この高国との戦いで功績を挙げたのが、晴元の家臣、三好元長です。

しかし晴元はこの元長を危険視して 一向一揆をけしかけ、敗死に追い込みます。 こうして晴元は幕政を支配します。その後も細川氏、同族同士の内紛は続きますが、 そんな中、台頭してきたのが、晴元に敗死に追い込まれた三好元長の子、三好長慶です。

三好長慶は晴元がけしかけた一揆の終戦に努め、名を挙げます。 この一揆によって堺公方と呼ばれた将軍候補の足利義維は阿波に逃れ堺公方は崩壊しています。

将軍 義晴は近江守護の六角氏を便り、将軍権威の復興に努めますが、長慶は勢力を拡大していきます。

そのような状況の中、義晴は体調を崩しがちになり、嫡男の義輝(よしてる)に将軍職を譲り、大御所となって義輝を後見します。

こうして義輝は十三代将軍となりました。

細川家の内部争いから力をつけてきた三好長慶は、後に、主君である晴元から離反します。

晴元と足利義晴、義輝親子は 三好長慶と敵対し、近江に逃れ義晴はここで病没します。 義晴の将軍家の復興の夢はこの義輝へと受け継がれていきます。

三好長慶の台頭と悲劇の将軍義輝

三好長慶は主君の晴元、そして将軍義輝を近江に追放すると 、晴元に自刃に追い込まれた細川高国の養子、細川氏綱を擁立し、入京します。

三好長慶は京都の支配権を握り、反抗していた義輝と和睦。

細川氏の家督を晴元から氏綱に据えると幕府の実権を抑えます。(三好政権)

この頃の三好長慶の勢力範囲は畿内、四国を中心に11カ国に及んでおり、 当時の他の守護大名よりも抜きん出た版図を築いていました。

しかし、長慶を支えてきた弟たちや嫡子の死が重なり、後に長慶自身も死去すると、 家督は長慶の甥の三好義継(よしつぐ)が継ぎます。

長慶の後を継いだ義継は幼いため後見であった三好三人衆や三好氏の重臣の松永久秀が力をつけていきます。

三好長慶の傀儡として実権を奪われていた十三代将軍義輝は、各地の大名の調停を行ったり、役職を与えたりするなどして、幕府の権威の回復に努めていました。

三好長慶の死を機に、将軍の影響力を強めようとした義輝でしたが、 逆に三好三人衆によって警戒され、二条御所で包囲されてしまいます。 (永禄の変)

この時、将軍義輝は 大群で包囲して襲い掛かってくる三好三人衆の軍勢を相手に自ら剣を振るい奮戦しますが、一斉に襲いかかられて討ち取られてしまいます。

この時、弟の義昭(よしあき)は仏門に入っていましたが、 捕縛され 興福寺に幽閉されました。

義輝の生母、慶寿院は火中に身を投げ自害、そしてもう一人の弟は三好三人衆によって暗殺されてしまいました。

しかし、義昭は義輝の側近たち (細川藤孝三淵藤英ら)に助けられて脱出。

還俗して正統な血筋の足利将軍家の当主になることを宣言します。

しかし、義輝が殺害され、不在となった 将軍は三好三人衆によって、阿波に逃れていた堺公方、足利義維の子、義栄(よしひで)が十四代将軍となります。

義栄が将軍に就任すると、 三好三人衆と 松永久秀は対立。 義栄は松永久秀討伐令を出します。

久秀は三好三人衆と度々交戦し、窮地に追い込まれますが、 織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、三好三人衆は信長に抵抗して機内から追い落とされ、信長の上洛に協力した久秀は大和一国の支配を認められています。
そうしたなか、将軍の義栄が病死してしまいます。こうして三好氏を機内から追い落とした信長の助力のもと、足利義昭が第15代将軍に就任しました。

最後の将軍  足利義昭

当初は義昭は信長を「御父」と敬い、共に室町幕府の再興を果たしますが、将軍としての権威復活を目指す義昭と、武力で天下統一を目指す織田信長との間に溝が生じ、諸国の大名に上洛を促す義昭に対して信長は義昭の行動を制限する「殿中御掟」を承認させます。

しかし、義昭はこの掟を守ることはなく、 信長の行動に不満を持ち、信長包囲網を形成し、決定的に対立することになりました。

ついに義昭は挙兵し、武田信玄も上洛を開始します。

信長は義昭に和睦を申し入れましたが、 義昭はこれを拒否し、抵抗を続けます。

こうした動きの中、幕臣であった細川藤孝や荒木村重等は義昭を見限り信長についてしまいます。

頼みとしていた武田信玄も上洛の最中病没し、織田軍に大群で包囲された義昭は降伏します。
義昭は京都から追放され、最終的には毛利輝元を頼り、備後国に落ち着きます。(室町幕府滅亡

義昭は将軍の地位に留まったまま、この地から信長追討と京都への帰還を目指し、全国の大名に呼びかけています。
しかし、信長は、各地の敵対勢力を駆逐し、最大の脅威であった武田信玄の息子、武田勝頼を滅ぼし、朝廷から官位を受け、天下人として認識されるようになっていきます。
安土に本拠地を構え、天下に号令しようとしていた信長が、明智光秀によって本能寺の変で討たれると、信長の家臣、羽柴秀吉山崎の戦いで光秀を討ち、台頭してきます。

義昭の頼っていた毛利輝元も秀吉に臣従し、秀吉が関白太政大臣となります。
義昭は毛利家の庇護の元、将軍職を維持していましたが、 九州の島津氏が秀吉に臣従すると、義昭は京都に帰還し、将軍職を返上します。
やがて秀吉から領地を与えられ、晩年は秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手であったとされています。
1597年、大阪にて死去。享年61。歴代将軍の中で最も長命な将軍でした。

義昭の嫡男であった足利義尋は信長の人質となった後、僧籍に入り、やがて還俗して二人の子供をもうけましたが、二人とも仏門に入ったため、足利将軍家、義昭の系統は断絶しました。
織田信長が義昭を京都から追放した時点で室町幕府は滅亡とされていますが、義昭は毛利家の元、将軍職を維持し続けていたため、 足利将軍家は義昭が将軍職を返上した時点で途絶えました。

初代、足利尊氏に始まり、 十五代、義昭まで250年近く続いた室町幕府は歴史に幕を閉じます。
室町幕府は将軍として権勢を保てたのは六代将軍の義教までで、それ以降の将軍は管領の細川氏や、有力守護大名によってその実権は奪われ、各地の大名が乱立し、室町幕府管領家の守護大名斯波氏の領国、尾張国から下克上によって成り上がった織田信長に滅ぼされることになりました。
そして織田信長亡き後、豊臣秀吉によって全国統一されていきます。

 

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