「麒麟がくる」で長谷川博巳さん演じる明智光秀 史実に見る その生涯

明智光秀歴史上の人物

謎に包まれた明智光秀の前半生

史実に見える光秀は生没年、出身地など 正確に捉えるのは難しく諸説あります。

主な生年は 1528年説 1516年説の2説がある 。 清和源氏土岐氏支流明智氏に 生まれたといわれるのが一般的。

生地に関しても 岐阜県可児市明智城 ほか近江説、 岐阜県瑞浪市説、 岐阜県大垣市説など 不明な点が多いです。

信長と出会うまでの光秀は 美濃国主時代の斎藤道三に仕えるも 、道三、義龍の争い(長良川の戦い)で道三方であったために 義龍に明智城を攻められ一族が離散したと言われています。

その後、各地を流浪したと言われ、 その後、越前守護朝倉義景を頼り仕えた、と言われます 。

その後、足利義昭織田信長の両属の家臣となり 1568年義昭の上洛に加わります 。このあたりから表舞台に登場してきます。

歴史の表舞台に登場

信長と出会ってからの光秀の活躍は 史実に登場し、目覚ましい活躍ぶりです。

  • 1569年 本國寺の変 (三好三人衆が義昭 宿所の本圀寺を急襲) にて義昭側として防戦
  • 1570年 金ヶ崎の戦い にて羽柴秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。 同年、丹羽長秀と共に若狭平定 、義昭から山城国、久世荘を与えられる。
  • 1571年 比叡山焼き討ち 実行部隊として活躍。 近江滋賀郡5万石を与えられる。 坂本城を築城。
  • 1573年 義昭が挙兵 。光秀は信長の直臣として参戦 。 義昭が織田信長に降伏後に追放される 。室町幕府滅亡
  • 1575年 惟任の賜姓と従五位の下 日向守、任官。 惟任日向守となる。 高屋城の戦い(大和国衆との戦い)、長篠の戦い越前一向一揆 殲滅戦に参加 。 丹波国攻略を任される。 丹波攻略戦にて八神城主、波多野秀治の裏切りに合い敗走。
  • 1576年 石山本願寺攻め参戦 。 正室の煕子が坂本城で病没
  • 1577年 紀伊遠征 雑賀攻めに従軍。 信貴山城の戦い(松永久秀を自爆に追い込む) 、 丹波攻め再開。 亀山城を落とし拠点とする
  • 1578年 中国攻めの秀吉の援軍として播磨へ派遣される 。
  • 1579年 八上城攻防戦、 丹波国を平定。 細川藤孝と協力して丹後国も平定。 信長に感状にて褒め称えられる。
  • 1580年 丹波29万石を加増されて34万石の領主となる。 黒井城に家老の斎藤利三、福知山城に明智秀満を入れる 。 丹後の細川藤孝、大和筒井順慶らの近畿地方の大名が光秀の寄騎として配属 。 畿内方面軍の成立 。 寄騎を合わせた合計の所領は240万石ほど。
  • 1581年 京都御馬揃えの運営責任者を任される。 軍法 明智家法定める <瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召し出しその上莫大な人数を預けられた 一族家臣は子孫に至るまで信長様へのご奉公を忘れてはならない> という感謝の文を書く。 光秀の 妹(御ツマキ)<信長の側室>が死去。 明智家中法度五箇条を制定
  • 1582年 3月 甲州征伐に従軍 。
  • 5月 安土にて徳川家康の饗応役を努める。 中国攻めの秀吉の援軍を命じられる。
  • 6月2日 本能寺の変

本能寺の変

徳川家康の饗応の任務を解かれ、秀吉の毛利征伐の援軍を命じられた光秀は、6月2日の早朝に出陣する 。
この時点での織田諸将の動向。

  • 織田信忠 軍勢 数百 村井貞勝らと京都妙覚時に滞在
  • 光秀の寄騎衆 <細川藤孝、池田恒興高山右近中川清秀>など 軍勢8000以上 丹後及び摂津の領国で中国への出陣準備中
  • 羽柴秀吉 軍勢3万 前後 中国、備中高松城にて毛利勢の清水宗春と対陣中
  • 神戸信孝、丹羽長秀 軍勢14000前後 和泉 摂津 にて四国征伐の渡海準備中
  • 柴田勝家佐々成政前田利家 佐久間盛政ら 軍勢48000前後 北陸 上杉景勝軍と交戦中
  • 滝川一益 軍勢26000前後 上野 厩橋城 にて越後への出陣準備中
  • 川尻秀隆森長可 甲斐信濃にて一揆勢の鎮定
  • 徳川家康 見物中

このような情勢の中 、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げ、京に向かう。

わずかな手勢と共に本能寺に宿泊する信長を包囲、急襲する。

信長の近習、小姓らは、ことごとく討ち死に、本能寺は焼け落ち、信長も自害した とされている。

信長の嫡男、信忠も救援に向かい善戦したが 、敵わず二条新御所にて自刃している。

信長と信忠の首が発見されることはなかった。

その後の光秀の行動[三日天下]

信長を倒してから秀吉に破れるまでのわずかな期間を光秀の三日天下と言います。
本能寺の変の後 、各地の諸将へ向けて味方になるよう書状を送る。

そして京都市中の信長方の落人狩りを徹底、居城の坂本城に入り摂津方面を警戒。

勝竜寺城を押さえる。

6月5日 、安土城へ入城。将兵たちに金銀を分け与えている。

その後、坂本城に入り近江をほぼ平定。

上洛し、摂関家、公家衆に迎えられる。

朝廷、寺社に金銀を献納。 誠仁親王の勅使を迎え、京都の治安維持を任されている。

朝廷との関係は良好だった。

しかし、その後、細川親子(藤孝、忠興<光秀の娘ガラシャの夫>)や筒井順慶、中川清秀、高山右近、池田恒興らの寄騎衆も味方につけられず、 本能寺の変を知り急遽、毛利と和睦して中国から引き返してきた秀吉の軍を6月13日に山崎にて迎え撃つことになる。

山崎の戦い

決戦時、秀吉の軍には池田恒興、中川清秀、織田信孝、丹羽長秀らの軍が合流し、およそ30000人以上 。 対して明智軍は15000人前後。

戦いが始まると短時間で光秀軍を敗北に追い込み秀吉軍が圧勝。

その後、光秀は落ち延びる途中、小栗栖にて落ち武者狩りに会い、竹槍で刺され非業の死を遂げる。

家老の斎藤利三は捕縛され六条河原にて斬首。

光秀と利三は粟田口で磔(はりつけ)にされる。

明智秀満は安土城の留守居の為、参戦できず山崎での敗報を受け 坂本城へ戻るが 、やがて包囲され 包囲軍に財宝を渡す 。

そして光秀と自分の妻子を殺し城に火を放って自害した。

娘婿の津田信澄は本能寺の変のあと、織田信孝らに殺害されている。

このようにして光秀と一族は滅亡した。

光秀の血筋を伝えているのは細川忠興に嫁いだ娘のガラシャの子孫。

ガラシャは後年、関ヶ原の戦いの際に石田三成が大坂にいた諸大名の妻子を人質に取ろうとした時、これを拒み自害。

このガラシャには忠興との間に三男三女がいたとされ、その血を伝えている。

この天下分け目の山崎の戦いが、天王山の麓で行われたため 、後に雌雄をかけた戦いの時に使われる天王山の由来となりました。

光秀の人物像

時は今 雨が下しる五月かな

光秀が本能寺の変を起こす前に 京都の愛宕山で開催した連歌会での有名な光秀の発句。

様々な解釈があるが <土岐氏の一族の出身である光秀が天下に号令する> という意味合いを込めた句である との説がある。

この歌を詠んだとき光秀は謀反を決意していたとされ、 その解釈の仕方によって本能寺の変の原因も様々な説が唱えられている。

光秀の性格を伝えるエピソードとして、信長と出会う前の浪人時代に培った見識や人脈が重宝された。

一般的には保守的で信長の激しい気性とは対照的であったとされる。

比叡山焼き討ちには積極的であったとされ、大名になるまでは信長に対して従順であった。

ポルトガルの宣教師 フロイスの「日本史」によれば光秀は戦上手、かつ狡猾で冷酷非情な人間だった と伝えている。

その一方で、連歌会を頻繁に催すなど当時の文化人や公家との交わりがあり教養が深い。

非常に家族思いで家臣も大事にする。

支配した領民から慕われており、善政を敷いていた事が伺える。

信長を倒した際に 有力大名に味方になるよう呼びかけますが 、多くの大名に拒まれ、 人望はなかった。 異例のスピードで出世したため、妬まれていたとも考えられる。

裏切り者、極悪人、と表されがちの光秀ですが、その死後、 天下を統一した秀吉や、家康の治世の下で作られた人物像であって 、光秀の作った城下町 、京都府亀山市や福知山市などでは 、今でも光秀は祀られ、人々が光秀を尊敬していることがわかります。

領民や家臣に対しては細やかな心遣いを見せる繊細な人物であったようです。

後に、光秀が家康の側近、天海であったとされる一説もあり、天海とは家康の江戸幕府における超重要な人物で、家康の死後、秀忠、家光にも仕えた高僧です。

真実はわかりませんが、天海説が真実味を帯びて伝わるのは光秀に、こうあってほしい、という人々の願望があったからこそですね。

光秀の時世の句

[順逆二門に無し 大道心源に徹す
五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す]

[心しらぬ 人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ 名をも惜まじ]

解釈としては

順臣も逆臣も元は同じ武家でしかないということだ 武家が従う大道は天皇以外にはない 55年の夢のような時は私にとっても覚めてみれば 一元に帰すのみだ

私の心を知らない者よ何とでも言うがいい この身も名も惜しいとは思わない

後世の創作とも言われていますが 明智光秀という人間をよく表している句だと 思いますね。

光秀の評価

混乱する戦国の世から、天下統一へ向けて邁進した革命児、織田信長を討った事に対しては主君に対する謀反という点で 逆臣と言われても仕方のないことです。

しかし、誰しもが恐れた天下布武を掲げた信長に立ち向かい、その後の秀吉、そして家康の江戸幕府へと続く泰平の世の元を作った、 と捉えれば、歴史を大きく変えた英雄としての見方もできますね。

なぜ本能寺の変を起こしたのか、様々な説がありますが真相はわかりません。

ただ、三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に同時代に深く関わり、名を残した明智光秀。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、光秀のドラマチックな生涯がどの様に描かれるのか、長谷川博巳さんの演技に要注目です。

 

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